名古屋市の公立小学校を卒業後、名古屋のトップ私立中高一貫校、東海中学に入学。東海高校に進学。東海中高時代は、成績は400人中、100番から150番くらい。当時の東海は、東大には20人から30人くらいの学校だったため、席次では、東大は絶対に無理といわれた。
ただ、将来は国際関係にかかわる仕事をしたい、と思っていたため、家族や友人、先生には「東大法学部に行きたい」と公言していた。周囲の反応は「まず、無理」というものだった。
東海高校2年生の夏から1年間、AFSというアメリカの団体の招へいで、アメリカの高校、コンコード・アカデミーに留学。この1年の留学で、さまざまな衝撃的な経験をする。高校生でも毎週のようにレポートを書く。授業は5人から15人くらいの少人数で、ディスカッション中心。次の校長を選ぶ委員会の6人の委員のうち、1人は生徒会長が就任したことにも驚いた。コンコード・アカデミーを卒業後に帰国。
東海高校の3年生に復学しようと思ったが、学校から「2年生に戻りなさい」と言われたため、高校を退学。アメリカの高校を卒業していたため、東大をはじめとする大学の受験は可能だった。年齢的には高3だったが、名古屋の河合塾の浪人コースの東大文系クラスに試験を受けて入れてもらった。最初の東大受験は不合格。2回目に東大文科1類に合格した。
当時の河合塾は、大学闘争で大学を追い出された優秀な先生がたくさんいて、刺激を受けた。東大では、法学部で政治史(篠原一教授)、政治思想史(佐々木毅教授)のゼミに入った。
大学を卒業後、朝日新聞に記者として採用され、最初は広島支局に勤務。事件、地方行政、平和問題を担当。3年後に朝日新聞東京本社で編集者として編成の仕事を3年間やった後、外報部(国際報道)に異動。1990年から93年までドイツに勤務。東京本社編集局のデスクを経て、2001年に朝日新聞社を退社。
大手予備校、私立高校、大学などで文章の書き方や英語を教える。その間、印西市議会議員として、北総鉄道の値下げに取り組む。
2015年にオックスフォード学院を開設。地域でナンバーワンの英検合格者数を誇る。