國弘正雄を知る|音読1000回が生んだ同時通訳の神話【没後10年】

オックスフォード学院

本日2024年11月24日は、「國弘の前に國弘なし。國弘の後に國弘なし」と言われた同時通訳、國弘正雄先生の10周忌です。きょうの動画は、國弘先生の人生、そして英語学習者に与えた影響を振り返る企画です。

1930年、日本が世界戦争に突入しようとしていた時期、東京と神戸で少年期を過ごした國弘先生は、戦後、ハワイ大学に留学し、帰国後は、大学で英語を教えつつ、日本語と英語の同時通訳を始めました。1960年代はサイマル・インターナショナルを設立。NHKでアポロ11号の月面着陸の同時中継をしたころから「同時通訳の神様」と言われるようになりました。

國弘先生の人生で特筆すべき点は、ただ英語がうまいだけの人ではなく、幅広い教養、知識、世界に広がる人脈を武器に、政治や護憲運動、反核兵器運動にまで活動を広げていったことでした。

「音読1000回」「只管朗読」など、厳しい訓練に裏付けられた英語学習を提唱した國弘正雄先生の足跡とその意義について、元朝日新聞記者で翻訳者・通訳者の飯竹恒一さんと一緒に考えてみることにします。

木村先生との出会いが人生を変える

國弘先生は東京の府立6中に入学した当初、英語が苦手だったといいます。しかし、その6中で木村武雄先生に「とにかく音読しなさい」と教えられたことで、人生が変わります。

学習した英文を、1000回、2000回と音読していくうちに、徐々に英語が得意になっていきました。

戦後は、進駐軍のアメリカ人から英語を習ったあと、青山学院大学に入学。在学中、日米学生会議に参加し、ハワイでアメリカの学生と討論しました。これがきっかけとなり、ハワイ大の2年生に編入し、卒業しました。

同時通訳の第一人者、そして政治へ

帰国してからは、通訳、英語教育者、そして政治家としてフル回転することになりました。アポロ11号の同時通訳、サイマルの設立者として1960年代には、30代にして有名になり、1966年には三木武夫外務大臣の秘書官として沖縄返還、日中国交回復を推進し、1975年には三木首相を補佐する外務省参与として先進国首脳会議を実現させました。

1990年代には、土井たか子さんからの熱心な誘いを受けて、社会党から参議院議員に立候補して、6年間国会議員を務めました。國弘先生は、党派を超えて「自由主義」「民主主義」を信じる人たちと親交を深めていました。その人脈の中には、丸山眞男・東大教授もいました。

このような國弘先生の人生を見ると、同時通訳としての活躍に加えて、教育、国際交流、政治など、幅広い領域で活躍していたことが分かります。

英語教育でも第一人者に

英語教育者としては、中央大学、お茶の水大学、上智大学、東京国際大学などで教団に立ちながら、NHKの「テレビ英語会話中級トークショー」、ラジオ短波の「百万人の英語」などの講師を務めました。

ハーバード大教授、エドウィン・ライシャワーの主著『ザ・ジャパニーズ』を1979年に翻訳し、これはベストセラーになりました。今、私(山本)の手元にあるのは、1981年に重版された本ですが、この巻末には「第31版」と書かれています。

今回のゲスト、飯竹恒一さんと私は、1970年代から80年代にかけて、國弘先生の影響を大きく受けつつ中高生時代を過ごしました。2人とも、英語が得意で東大に合格したわけですが、國弘先生の「音読1000回」が2人の英語力をつくった、ということができます。

切れてしまったカセットテープ

飯竹さんが中高生時代に繰り返し「只管朗読」「只管筆写」したのは、リンガフォンという英語教材でした。リンガフォンは、数えきれないほど付属カセットを使って音読し、30回筆写しました。最後にはカセットテープが切れてしまいましたが、リンガフォンの日本支社が、この切れたカセットを新品と取り換えてくれたことを、今でも感謝しています。

また、駿台予備校時代には『基本英文700選』を自分で読んでカセットに録音し、3カ月ですべて覚えました。この学習も「國弘メソッド」を実践していた、ということができます。

10代の時に徹底して英語の音読をしたことで、英語の基礎ができていった、と飯竹さんは考えています。

今回の記述は『國弘正雄の軌跡 烈士暮年に、壮心已まず』(國弘正雄、鈴木英二編、たちばな出版)を参考にさせていただきました。

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